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ぼくの中の昭和の断片 [昔話]

平成の世になって早24年目。
陽水の世紀の消音クチパク、「お元気ですか~?」からもう四半世紀近くが経つなんて
絶対ウソだよね、そんなの。そんなこと、あっていいはずがありませんよ、絶対!

さて、そんなこんなの今日この頃、昭和を思い起こさせるブログ記事を目にすることが、
何だかすごく多いような気がするのですが、気のせいでしょうかねえ?
そんな中のひとつ、例えばこの本は、“e”さんが記事の中で紹介してくれたものです。
タイトルに偽りなし。少し古めの昭和の香りが、あちこちに溢れていました。

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東京オリンピックであります。
この時ぼくは10歳の紅顔の美少年。(誰も言ってくれない時は自分で言う。^^)
毎日かじりつくように見てましたね、白黒テレビで!^^
今でも一番記憶に残ってるのは、東洋の魔女でもなく、体操の遠藤選手でもなく。
マラソンのアベベでも、陸上100mのヘイズでもありません。
どういうわけだか、水泳のドン・ショランダー選手。不思議だけど事実だもんなあ。
その後、市川崑監督の『東京オリンピック』を全校生徒で観に行かされました。
映画館までを遠足みたいに整列徒歩して行ったのが、妙に楽しかった覚えがあります。


昭和の中に身を置いたのが約35年(34年と10ヶ月)。
そして、平成のそれが約23年(23年と1ヶ月)です。
よくよく考えたら、面白いことに気づきましたよ。
平成の経験値23年というのは、非社会人の期間と同じです(大学3年を2回やったので)。
ということは、残りの35年は社会人の期間と同じなんですね。
単なる偶然だし、だからどうだってことも、特には無いんですけど。
でも、社会人になるまでの23年間って、結構色々なことがあった気がするけど、
平成の23年間ってエポックメイキングな出来事が少ないような気がするなあ。

昭和のキーワードって何でしょう?
人それぞれキーワード自体も違ってるだろうし、それが持つ意味も違うんでしょうけどね。
不思議なのは、昭和って何だか暖かい感じがするんですよね。正体は不明だけど。
暖かいのは体温でしょうか? 絶えず動き回ってたから体温が上がってるのかなあ?

昭和にあって、平成に無いもの。
無駄が無い、という前提。
昭和には、無駄になると事前に分かっている前提など、あり得なかった気がします。
一方、平成には、ある程度の無駄が無いと、全体が成立しない危うさがありました。
だから、無駄を省き始めた今、世の中はどんどん危うくなり始めてます。

昭和にあって、平成に無いもの。
ソリッドステート(という表現)、オープンリールのテープデッキ(憧れの10号リール)。
NASA宇宙ロケット打ち上げの実況生中継と、その際の同時通訳。
蛍雪時代(←ぼくはやや世代が違うけど)、赤尾の豆単。

昭和って、追いかけてる気楽さがエネルギー源だったんじゃないかなあ?
平成は、追いかけられてる焦燥感がブレーキを掛けてる気がしますね。
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Merry X'mas !! [昔話]

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今日はクリスマスですね。
クリスマスと言えば、我が母校(高校)関連の面白い話をご紹介しましょう。
2学期の終業式は大体23日前後だと思いますが、我が母校の終業式の会場には、
小さめの四角い箱が、うず高く積み上げられていました。
さて、その四角い箱とは・・・?(答えは後ほど)

ぼくはクリスチャンでもないのに、ひょんなことから、キリスト教系の高校でした。
先生にも神父さんがおられるような学校で、月曜の朝はミサから始まります。
学生の2割ぐらいは「神学生」という神父さんのタマゴで、当時、学校は山荘通りにあった
のですが、神学生の寄宿舎である「神学校」も、そのすぐ近くにありました。

ぼくが入学した昭和44年当時、全校生徒数は100人ぐらい。
1学年は約20人のクラスが2クラス、ぼくが入った頃の3年生は1クラスだったから、
全校でもわずか5クラスという信じられない構成でした。
よく言えば少数精鋭、悪く言えば不人気だったのかもしれません。

当時の我が母校はC紫女学園、福岡F葉、福岡C央と、女学生の大集団に囲まれており、
自転車通学のぼくも、雨でも降ろうものなら、女子だらけの城南線(路面電車)です。
いやあ、まったく肩身の狭い思いをしておりました・・・。(ホントかよ?)
あ、いつものようにちょっと脱線しておりますね。^^;

さて、四角い箱とは・・・そうです、クリスマスケーキ!(笑)
直径は、恐らく20cm以上あったと思います。
何の変哲も無い、普通の丸いケーキなんですよ、これが不思議にも。
ね? 面白いでしょう?? と言うか聞いたことないでしょ、こんな話。
クリスマスにケーキを配る高校なんて、ぼくは母校以外に聞いたことがありません。

ひとつには少ない生徒数だったから、こんな面白いことが出来たのかもしれません。
もらったケーキを大事に大事に自転車の荷台にくくりつけて、この日だけはいつもよりも
明らかにゆっくり目の速度で、注意深く家に帰ります。
悪い成績をケーキで誤魔化そう・・・決してそんな魂胆からではありませんよ。(笑)

そんな我が母校も、今年から校名が変わってしまいました。
随分前に移転して所在地が変わり、今年からは校名まで変わりました。
もう昔の面影はまったく無いって感じですね。何だか寂しいなあ。
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思い出の公衆電話 [昔話]

以前の記事で、金曜の夜はどこか仕事を引きずってる所があると書きました。
だけど今は、ちょっと訂正したい気分。
最近は仕事の負荷が大きくなり過ぎてて、土曜の夜は既に仕事がチラ付き始めてる。
我ながら何だかなあ~と思うけれど、事実だから致し方ありません。
よって、憂い無く何でも好きなことが出来そうなのは、金曜の夜にシフトってことで。^^;

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(北近畿タンゴ鉄道:宮福線沿線風景、2011年8月20日撮影)

最近、単身赴任された“r”さん。
そして、ご主人の海外赴任に伴って、つい先日渡米された“k”さん。
特にkさんの先日の記事は、情景が目に浮かび過ぎてビンビン来ました。
カルチャーショックはあるし、色々なことにも不馴れだから意のままにならず落ち着かない。
あるいはまた、そんな中で多くのことをイチから始めなければならない面倒さ。
状況の詳細は違えど、ふと、昔の自分を思い出してしまいました。

プロフィールにも書いたとおりです。
15年半前に、ぼくは1回目の単身赴任に見舞われました。
学生時代は家から通っていたし、就職しても相変わらず家から通勤してました。
自宅からの通学・通勤に拘ったわけじゃありませんが、偶然そうだったんですね。
だから「ただいま~」と帰宅して、「お帰り~」の返事がないのはまったくの未体験領域。
それまでが恵まれていたんだと言えば、確かにそれだけの話かもしれませんが。

当時は、大ブレークしてニュースにもなったwindows95がリリースされた頃。
i486(DX4)からPentiumマシンへの移行が始まった頃、自宅のPCの増設メモリは1枚が
大体8MB(今を2GBとすれば1/250)という頃です。
windows95のお陰で、パソコン通信からインターネットへの拡大が進み始めたものの、
PCにはLANポートはおろか、今では誰も使わないようなモデムさえも装備されておらず、
外付けの56Kbpsモデムにピーピーガーガー言わせながら、23時からのテレホタイムに
10~20Kbps(今を10Mbpsとすれば1/500~1/1000)ぐらいでダイヤルアップ接続
してたような原始時代です。
圧縮し忘れた添付ファイル付きのメール受信に、1時間以上掛かったりしてました。
あ、脱線してますね。話を戻しましょう。(笑)


風呂は自分で掃除しなければ、誰もしてくれる人はいない。
メシは自分で作るか買ってこない限り、忽然と出て来るなんて金輪際あり得ない。
もし目覚ましを掛け忘れたら、いつ起きるかは成り行き任せだ。
宅配便を受け取ろうにも、配達可能時刻に帰宅できずに受け取れない。
うず高く積まれて行く食器や洗濯物、これらは一体、どうすれば良いのだ?
何事も、未経験ゾーンというのは、人を不安と焦燥に陥れます。
慣れてしまえば何てことないことでも、瞬間的には途方に暮れさせるに十分です。

引越の日の夜だったか、次の夜だったか。
家に残して来た、その頃小5の息子と小2の娘に電話しました。
段取りが悪くて電話工事が済んでなかったし、携帯電話も持ってなくて。
もちろんネットは自宅にしかありませんから、当然のように外の公衆電話からです。
その頃は今と違って街中に公衆電話があったけど、それでもマンションからは歩いて
4,5分は掛かったかなあ。

まず、手持ちの十円玉を全部かき集めました。
次に、パチンコ屋さんで2,000円を百円玉に両替しました。
あの頃は電話料金が高かったのかなあ、2,000円分の硬貨はあっという間でした。
あと500円でも千円でも、どうして両替しとかなかったのか!
などと悔んでみたところで、結局いくらあっても一緒だったと思いますけどね。

しているのは他愛のない話、どうでもいい話ばかりです。
だけど他愛ない話であればあるほど、どうでもいい話であればあるほど、
何だか随分遠い所へ来てしまったんだなあ、という後ろ向きの気持ちになりました。
子供たちのためにも頑張らなきゃいけないとは思うものの、おれは本当に頑張れる
のだろうか・・・という思いが複雑に交錯しました。
ま、当然ながら、お父さんは頑張ったわけですが。(笑)

思い出の公衆電話というには、あまりにショボ過ぎる話ですよね。
だけど、今はもう無くなってしまったあの日の電話ボックス周りの夜の風景や、
暗がりの中の曇り空、まだ4月初旬の肌寒さ・・・
それらが渾然一体となって、いまだにかなり鮮明に残ってる気がします。
もう15年も前のことなのに。
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おふくろとスペースシャトル [昔話]

昨日7月21日、スペースシャトル計画最後の任務を無事に全うし、30年もの
長きにわたるシャトルの歴史に幕が下りたのは先刻ご承知のことと思います。
コストと安全性、環境への適応に明け暮れたスペースシャトルの30年。
それは一体、どれほどの人たちの苦悩に支えられて成立したのでしょう?
ぼくにはそのわずかな一端でさえ垣間見ることはできないけれど、途方もない
苦難の連続であったことは想像に難くありません。
スペースシャトル計画に携わられたすべての方々に敬意を表したいと思います。

シャトルは計画当初、4機ローテイションを前提に立案されたのだそうです。
しかしご存知の通り、86年の事故でチャレンジャー号を失い、その補完のために
手持ちの部材をかき集めてエンデバー号を追加製作したものの、03年に再び
コロンビア号を事故で失いました。
結局、当初からの4機プラス追加製作の1機を含めて全部で計5機を製作して
事故で2機を失い、残念ながら現存するのは3機ということになります。

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(海ノ中道海浜公園 シオヤ鼻から玄界灘を望む 2010年4月25日撮影)

さて、ぼくにとって生涯忘れることができないのは、チャレンジャー号です。
チャレンジャー号は前述の通り、86年1月28日に発射後73秒、高度15km弱と
言うから、ジェット旅客機の巡航高度11~12kmよりも少し高いぐらいの上空で、
不慮の事故により一瞬にしてバラバラになりました。
この時のニュース映像は相当ショッキングなものでしたから、脳裏に焼きついて
おられる方も少なくないのではないかと思います。
だけど、それが原因で忘れられない、というわけではありません。
理由はまったく別のところにあります。

今から25年前の昭和61年(1986年)1月。
ぼくのおふくろは、その前年の秋口ぐらいに、自宅近くの総合病院から福岡県
久留米市にある久留米大学病院に転院していました。
甘いもの好きでアルコールは一滴も口にしないのに肝炎から重い肝硬変となり、
その頃は既に手術するためにかける麻酔を解毒する能力が肝臓にないため、
手術もできない状態になっていました。
今にして思えば、不自由な闘病生活だったであろうおふくろの唯一の楽しみは、
その時1歳半だった初孫(息子)と時間を忘れて戯れることだったと思います。

チャレンジャー号悲運の事故から数日経った休日、86年のカレンダーを見ると、
2月1日が土曜なので、恐らくその日のことだったと思います。
ぼくはカミさんと息子を連れ、いつものように久大病院にお見舞いに行きました。
主治医から聞く病状の重さをつい忘れさせるほど、おふくろはいつも元気な姿で、
だから大体2週間に1回のお見舞いが次第に億劫になり始めていました。
ぼくは内心、「そんなに頻繁に来なくてもいいよ」というおふくろの言葉を、消極的に
ではあるけれど、恥ずかしいことに期待している自分を感じていました。

しかし、そんなぼくの感覚とは逆に、その日のおふくろは珍しく「もっと来てほしい」
という意味のことを、突然ポツリと漏らしました。
今の今まで、ただの一度もそんな言葉を聞いたことがありませんでした。
心配をかけまいと芝居をし続けては来たけれど、ついにそれも限界に達したのか?
あるいは、どこかで何かの虫が知らせたのか?
後になって気づいても仕方がないのですが、当時のぼくは、その言葉から何ひとつ
感じ取ることができませんでした。
「うん、できるだけね」などと、表向きは調子のいいことを言いながらも、内心では
「こっちも忙しいのに勘弁してよ。高速代だってかかるし。何せ遠いんだから」。
いつも気丈に振る舞い続けるおふくろが、いまだかつて無いそんな弱気な言葉を
口にすること自体、何かしら重大な意思表示だったに違いなかったのに。

その日、病院に持参してきた何かを包んでいたのでしょう、数日前の新聞がベッド
の脇にあり、カラー写真付きの大見出しが目に入りました。
「スペースシャトル チャレンジャー空中爆発 乗員7人全員・・・」
おふくろの「もっと来てほしい」から話題をそらそうと姑息なことを考えたのかどうか、
今となっては誰にも分かりません。
少なくともそれ以降、二度と「もっと来てほしい」に話が戻ることはありませんでした。
ぼくは新聞を片手に、無意味にチャレンジャー号の話をいっぱいしたと思います。
おふくろは、どうでも良いようなぼくのシャトルの話を「そうね、そうね」と頷きながら
聞いてくれ、そしてそのままその日の面会が終わる時間になりました。

「じゃあ、またね」

その10日後、おふくろは静かに息を引き取りました。
雪が舞う2月の寒い朝でした。
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蘇る少年時代 [昔話]

博多駅地下街に、古いプラモを売ってるお店がありました。
ここ、以前は違うお店だったから、最近出来たんだと思います。
へえ~。だけど、果たして福岡でこういう業種が成立するのかなあ?
成立してくれたら嬉しいけどね。

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そのお店にあったポルシェ910です。通称カレラ・テン。
ご存知の方も多いでしょう、旧き良き空冷ボクサーを積むレーシング・プロトです。
通路に面して目立つように置いてあったから、このお店のイチオシ商品?
お店のコンセプトから言って、これも年代物なのかなあ?

生沢徹がこの910を駆って、日本GPでいい勝負したのは、調べたら68年。
世に言う「TNT対決」ですね。(ぼくは後で知りましたが)
最初のTは、ヤマハに尻を叩かれて重い腰を上げた?TOYOTA。
次のNは、前年にプリンス自工を吸収合併したばかりのNISSAN。
そして最後のTは、非ワークスの滝レーシング。(TAMIYAが有力スポンサー)

さて、プラモの910です。昔、作った記憶があります。
当時はチャチなものばかり作ってたけど、これはぼくにとっては本格派の高級品。
だからよく憶えてる。つたない記憶では、中学になる前だったように思うんだけど、
上記のように日本GPが68年ならば、ぼくは中学3年ってことになる。
記憶ってのは、ことほど左様にいい加減なものなんですねえ。(^^;
でも、12分の1スケールだったような記憶があるのと、パッケージも違う気がする。
確か、もっと全体的に白っぽいデザインだったような? 気のせいかなあ?

プラモは多くの少年たちを魅了しました。
遊びの中心は、今とは違い、まだ圧倒的に屋外が主流だったと思いますが、
屋内ではプラモかマンガ、そしてこの頃普及が始まったテレビ放送(白黒)。
ゲームと言えば、まだボードゲームぐらいしかなかった時代でしたからね。
何せ60年代は1ドルが360円の固定相場制の時代。
本当に『三丁目の夕日』の世界、そのものでした。

思えば、プラモ以前はマンガひと筋だったなあ。
もちろんオフクロ推奨、学研の『科学』だって読んじゃいましたけどね。(笑)
小学校低学年の頃に読んでたのは、月刊マンガ雑誌の『少年』。
多くの読者もそうだったでしょう、お目当ては『鉄腕アトム』と『鉄人28号』。
今も雑誌には「おまけ」が花盛りですが、当時から既におまけ合戦でありまして、
時々付くアトムや鉄人だけで構成されてた薄いおまけ本(別冊付録)とか、
これも時々おまけで付く帯状のシールは宝物だったなあ。

その後、月刊から週刊誌(マガジン、サンデー、少し遅れてキング)に移行。
世の趨勢だったのでしょう、おまけ付き月刊誌は続き物中心の週刊誌に押され、
次第に書店から姿を消して行きました。
作家で言うと桑田次郎や小沢さとる、ちばてつやなんかが好きだったなあ。
本をバラして、好きな作品だけを自家製単行本化してる友人もいました。
ああ、何だかわけもなく無性に懐かしいなあ。
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